電子透かし小史
Short History of Digital Watermark

ここでは黎明期から開発に携わるなかで私が垣間見てきたことを小史として書いてみます。情報隠蔽技術ではなく電子透かし小史となっていますがその理由は一読いただけると理解できるとおもいます。また、いわゆる古典的な透かし、あぶり出し、などのアナログ的な方法はそれなりにおもしろいのですがそれらについては省略します。
小史をご覧いただけばわかりますが、電子透かし技術の研究においては基本的なアイディアや重要な技術への貢献は日本人研究者の手によるところが大であるという点です。


1.黎明期(1985年〜1994?)
電子透かしの原型の一つは、1988年に出願された次の特許に見ることができます。恐らく日本、あるいは世界で最初の特許ではないかとおもわれます。

特願昭63−224181
特許第2653490号
この特許はFAX画像(FAXは画像です)に別の情報を埋め込むというものです。
目的は「情報を隠す」、「隠した情報をタダで送信できる」、という二点にあります。
技術的にはFAX画像の一部を人に気づかれない範囲で変更するという方式です。埋め込むべき情報に基づきFAX画像の一部を0.12mmだけ水平方向に長さを変化させます。

画像の構成要素の一部を変更する方式は次の例のように古くから使われています。
大戦中にドイツ統治下のフランスのレジスタンスがドイツ軍の検閲に悩まされていました。そこで仲間同士の通信には切手の一部を変えて目印にしたものを利用しドイツ軍に気づかれないようにしました。一部が変更されているのが味方、そうでないのはドイツがオトリで出したもの、というわけです。切手の画像の一部が変更されています。あらかじ教えられていなければ多分気づかない程度です。事実、大戦中気づかれること無く交信できたとされています。いまで言うSteganographyに属する技術です。この話は以下の本に紹介されていますので興味のあるかたはご覧になってください。

H. Keith Melton : "The Ultimate Spybook", Dorling Kindersley Limited, London, 1996.

特許に戻りますが、この手法はFAX画像の一部を、埋め込み情報に応じて人に気づかれない程度に変更してしまうのです。画像全体が変わるのではありません。外観上はなんら変化を起こしていないように見えます。
変え方はごく僅かであれば人は気づくことはありません。すなわち視覚のあいまいさと、かつ画像の持つ冗長性を利用していたのです。この発想は現在の電子透かしと同じです。

ただし、この発明の中に「電子透かし」という言葉は登場しません。
このことでおわかりのようにまだ「電子透かし」という概念はありませんでした。
当然です。開発当時、インターネットの商用利用はされていませんでした。また、今のようにCDもDVDもありません。当然「コンテンツビジネス」などという発想はカケラもありません。
使用していたPCはNECのPC9801xxというマシンでクロックは8〜12MHz程度のように記憶しています。通信も300ボーとか1,200ボー程度の速度でした。ですからテキストベースの通信であり、それでも通信時間は大きなものだったのです。この発明の目的は「通信内容を第三者に見られないようにする、通信とはお金がかかるものでその費用を安くする」ということにあったわけです。

当時の最もポピュラーな通信手段の一つはFAXです。ただそのFAXは受信したとたんに紙で出力されるので誰でも内容を読めてしまいます。何とか読めないようにしたい、そんな願いがこめられていました。当時は辞令などをFAXで送ったりしていました。部長や工場長宛の辞令を最初に見るのはFAXの前に座っている女子社員で移動させられる本人などよりはるかに前に事実を知ることになります。発表の前に全員知っていて、知らないのは本人だけ、などという笑い話は結構ありましたっけ・・・。こんなこともカバーシートに裏情報として埋め込んで送信すれば防げます。そのような願いを込めて一生懸命に開発に努力しましたがうまくいきませんでした。理由は当時の技術環境が貧弱であったことがあるでしょう。しかし、実際にもっと実用化を妨げたのはは別の理由でした。1980年代は「情報セキュリティ」という概念などは無いと考えてもよい時代なのです。「暗号」でも今のように桧舞台に登場していたわけではなく、一部で限定的に利用されていた特殊な技術にすぎませんでした。さらに「画像」「通信」「情報秘匿」ときたらもうまるで相手にされないわけです。どこで誰に話しをしてもテンデ相手にされません。実用化の道を模索しつつ開発を進めていましたので理解が得られず常にテーマの存亡の危機に瀕する悩ましい状態が続いていたのです。

これよし少し遡った1987年に擬似多値画像への埋め込み方法が提案されています。当時は濃淡画像の表現方法として濃度パターン法やディザ法が用いられていました。濃度パターン法とは例えば1画素を4個のセルで表しずべて黒なら黒レベル、すべて白なら白レベルといいい、中間は黒画素の数で決まります。実質的にはニ値画像です。

中村康弘、松井甲子雄:”濃度パターン法を用いた濃淡画像とテキストデータの合成符号化法, 電子情報通信学会論文誌, vol. J 70-B, No.12, pp.1475-1481(1987).

その後も「面白い技術ではあるが何に使うの?」と言われながら研究は進められていました。当時から開発に関わっていましたが、説明にはいつも苦労していました。その一つに良い呼称が無かったこともあるかもしれません。すなわち、当時は「コンテンツ」という概念が希薄で不正コピーという問題も意識されず、ましてその防止策などは考えもつかないわけです。したがって今の「電子透かし」という概念は無いどころか、言葉すら無いわけです。例えば「画像を用いた暗号技術」「画像深層暗号」などという表現が用いられていました。このあたりについては当時の唯一の書籍(恐らく世界で唯一)から知ることが出来ます。松井教授は最初にこの技術を始めた一人でもあります。

松井甲子雄著「画像深層暗号」森北出版(1993)

上記の中には既に現在の電子透かしの手法の基礎は詳細に記述されていますが、「電子透かし」なる言葉はありません。したがってこの技術の目的はあくまで「暗号技術」に類似のものであり秘密の保持のためとして扱われていたことがわかります。すなわち現在のSteganographyの発想に近いものです。

タイトルとして「電子透かし」のルーツにあたる言葉が用いられたのはこれより少し前で、下記であるといわれています。残念ながら日本人ではありません。

Tirkel, A., et al., "Electronic Water Mark" Proceedings DICTA 1993, Sec. 1993, pp.666-672.
当初は"Digital Watermark"ではなく今の日本語訳通り"Electronic"となっていました。

この前後に発表された論文のタイトルや文中に次第にDigital、Electronic、Watermarkなどが頻繁に使用されています。やがてDigital Watermarkが一つの用語として定着したものと思われます。ただ日本語訳はDigitalを訳さずそのままとなったのでしょう。ただ以前は時々「デジタル透かし」とも呼んだりしていました。そういえば最近は言わなくなったなあ。

このころより海外でも盛んに電子透かしが研究されるようになるのですが、電子透かしの研究の実質的な起爆剤となったのは次の論文ではないかと思われます。すなわち、先の命名はそもそもこの研究の発表があって、次に海外の研究が盛んになり、海外で用途と結びつき命名されたと思われます。

Tanaka, K.. , Y. Nakamura and K. Matsui : "Embedding Secret Information Into a Dithered Multilevel Image" Proceedings of the 1990 IEEE Military Communications Conference, 1990, pp.216-220.

この論文の著者であるMatsuiとは先の「画像深層暗号」の松井甲子雄教授のことで、冒頭で述べたFAXへの情報隠蔽をはじめ多数の画像への隠蔽技術の研究者です。また、先に述べた「画像深層暗号」にはこれ以前に発表された研究が幾つか掲載されており電子透かしの実質的な生みの親であるといえます。
言葉こそ日本人が命名できなかったものの、技術は日本で生まれて育ったといえるでしょう。

それにしてもこの「電子透かし」という呼称はヒット作でした。第一に呼びやすいし、また簡単でなんとなく内容がわかった気になります。名称は単なる思い付きではなく応用や類似例から導かれたもので、一つの技術の本質を捉えることから始まります。自分も含め日本人はどうもこのあたりの発想が弱いように思います。

.2. 第一世代(1993〜1998)
黎明期と年代は少しダブッています。黎明期の中に既に第一世代の技術の萌芽があるからです。埋め込み技術の手法が次々に提案された時代です。セキュリティ関連の学会でもそれまでは「電子透かし」という分類は無かったのですがこの頃から単独でジャンルわけされるようになりました。電子透かしに関する研究は飛躍的に増加しました。
応用面でもインターネットの商用利用とともにコンテンテンツの不正コピーが危惧されるようになりました。その対策として電子透かしに期待が集まりました。
技術的には周波数領域への変換、統計的な手法などが利用されるようになりました。
埋め込み技術としては一段とコンテンツの質を要求するようになり、また電子透かし自体の強度に目が向けられるようになりました。すなわち技術的には「薄く、万遍なく」埋め込む方法が主となりました。そのため用いられたのが周波数領域での埋め込みすなわち、離散コサイン変換、離散フーリエ変換などが用いられるようになりました。

周波数領域へ変換してから埋め込む、あるいはスペクトル拡散技術を利用する、パッチワーク法の考案などはすべてこの頃です。

先の「画像深層暗号」には既に周波数領域における埋め込み手法が述べられています。
初期においてスペクトル拡散を導入した手法として下記があります。

I. J. Cox, J. Killian, T. Leighton, T. Shamon : "Secure spread spectrum watermarking for multimedeia", NEC Technical Report 95-10, NEC Research Institure(1995)

Bender, W. D. Gruhl, and N. Morimoto : "Techniques for Data Hiding" Proceedings of the SPIE 2420,Storage and Retrieval for Image and video Database III, 1995, pp.-164-173.

この二番目の論文の「Data Hiding」は「DataHiding]としてI社の電子透かしの商標となりました。

ところでなぜ周波数領域や拡散技術、パッチワークが用いられるようになったかということですが、JPEG などの圧縮技術の影響があります。圧縮によって埋め込んだ電子透かしが消滅しないことが要求されたのです。またこれらの技術では離散コサイン変換(DCT)が圧縮過程で用いられています。周波数領域での埋め込みによればその圧縮過程で埋め込むことが可能になり埋め込み時間の効率改善できます。パッチワーク法も同様で周波数領域への変換こそ行いませんが様々な画像操作に対する耐性向上が実現できます。

第二世代(1999〜現在))
お断りしておきたのですが、この世代分類は私が行っているものです。どのような視点で分類するか、によって異なった見方もあるかもしれません。
第二世代は耐性を考慮した電子透かしの開発世代であると定義しています。すなわちアメリカのポートランドで開催された情報隠蔽のシンポジウムにおいて電子透かしの評価について報告がありました。次の論文です。

Fabien A. P. Peticolas, Ross J. Anderson, Markus G. Kuhn : "Attacks on copyright marking systems", David Aucsmith(ed), Information Hiding, 1998, Proceedings, LNCS 1525, Springer-Verlag, ISBN 3-540-65386-4, pp.219-239.

それまでは電子透かしの埋め込み手法について新しい提案をすることが中心でした。その実用性と耐性については個々の研究者が評価する程度でした。また実用上どのような点が課題であるか明確には認識されていなかったといえます。すなわち、電子透かしは情報を埋め込んだあと画像処理などを受けるわけですがそれらについては体系的な考慮はされていませんでした。ところが、StirMarkによる評価法が発表されて以降考え方が変わりました。電子透かしには一定の耐性が要求されるようになったのです。考えてみれば当たり前のことです。StirMark以前は透かしを考案した人間が自分で自己評価する、というようなことでしたから、どうしても我田引水の感は否めなかったのです。ところがStirMarkにおいては所定の項目についてパラメータを設定して耐性評価します。誰でも簡単に使えるツールですから客観的な評価となるわけです。
StirMarkの電子透かし研究において果たした役割は大きなものがあります。これ以降、研究姿勢は一変します。単に埋め込んだ、とか埋め込み技術の奇抜さを競っていた状態から脱却し強度を意識した研究が重要となります。あたかも暗号の研究に攻撃法が大きく寄与していることと似ています。
さらにアナログ変換耐性のような厳しい要求へも答えようとする技術も萌芽してきます。すなわち印刷耐性とか画面キャプチャー耐性とか一旦アナログ変換を経たあとにも電子透かし情報が存在しているような技術です。これにはもう一つの理由もあります。すなわちオーディオや動画においてはDVDなどの機器間のコピープロテクション技術が普及したことがあります。これによりデジタルコピーが困難となってきました。安直に画面やアナログデータからコピーすることも行われるようになったのです。こうなるとデジタルコピープロテクションはお手上げです。当然、それらの画質等が悪ければ話にならないのですが、表示ディスプレイ、デジタルカメラ、スキャナ、プリンタなどの機器類が目覚しく性能改善しました。また安くなりました。これらの要因も考慮せねばならないでしょう。
これらについては下記二点を参照してください。なかでもカメラ付き携帯電話の普及による「デジタル万引き」といわれるコピーが最近問題となっています。後者ではそのような問題を取り上げています。

水本 匡、松井甲子雄:DCTを用いた電子すかしの印刷取り込み耐性の検討、信学論(A)、Vol. J85-A, No.4, pp-451-459(2002)

小野 束、江川雄毅:印刷耐性のある電子透かし方式の検討、情報処理学会誌、Vol. 45, No.3, pp.880-890(2004)

一方では、強度は本当に必要なの?なくても利用できる分野があるのではないか、ということから秘密通信への応用が分化していきました。すなわちSteganogarphyです。Steganographyの考え方は埋め込まれた情報に意味があります。画像や音楽は見かけ上のオトリのようなものです。ですからStirMarkのようなツールや画像処理など行って埋め込まれた情報が消えても基本的には問題がありません。

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